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落書きほどではないけれど、芸術的でも決してない。そんな感じ。

『霊剣山 叡智への資格』が魅せた妙技

2017年冬アニメは、ある革命的な作品が頭角を現し、旋風を巻き起こした。 そう、皆様御存知『けものフレンズ』である。 今作がここまで話題を読んだ理由は様々あるが、評価される点に関しては、その巧妙な脚本が上がることも少なくない。 一見してピースフルな雰囲気の奥に並走する、影の暗い世界観のギャップ。その闇の部分を少しずつ、効果的に演出する脚本は賞賛に値するべきであり、その妙技には唸らされた人も多いのではないだろうか。

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さて、時を同じく妙技を見せたアニメとして、皆様は『霊剣山 叡智への資格』という作品をご存知だろうか? 恐らくほとんどの人間が見ていないだろう。それどころか、名前すら初めてきいたという人間も少なくないと拝察できる。今回は、そんな方々も、また今作を見ていたという奇特な霊剣派の同士諸君にも、霊剣山が我々に見せてくれた「技」について解説し、この叡智の一端を伝授したいと思う。

 

 


1.霊剣山ってどんなアニメ?

 

まずは作品についてざっくりと説明したいと思う。

『霊剣山』は中国のウェブ小説ならびに漫画を原作にした作品であり、昨年冬に第1期『星屑たちの宴』が放送、そして今回の『叡智への資格』が第2期となる。

この霊剣山、どうやら中国国内では非常に国民的な作品として有名らしく、中国でのNARUTOと言っても過言ではない(らしい)。

 

さて、このように鳴り物入りで大陸から到来したこの霊剣山。

物語の内容をものすごくざっくり説明すると、「主人公の王陸が一人前の仙人を目指して霊剣山で修行する」というものだ。

更に『星屑たちの宴』では王陸が霊剣山に入り仙人としての修行する少年期が。そして『叡智への資格』では、2年後霊剣山を降り外界で徳を積む試験を受ける青年期の話となっている。

 

なるほど、こうして見ると実に単純明快な、王道的で少年漫画的なストーリーの骨組みを思わせるだろう。 しかし、今作の持つ"毒性"は、底知れぬ兇悪さを秘めていたのだ。

 

私が1期『星屑たちの宴』をレビューする時、あるいは誰かに語り聞かせる時、 「まるで遥か雲上の霊峰を臨むかのように朧で、あてもない山道で意味もわからずあるき続けるような感覚の作品」 と吹聴して回っている。

例えば、突然謎理論で橋が消えたり、2年間お風呂に入ってたらパワーアップしてたり、突然熊を師匠と呼んで戦ったりする。 専門用語が多く理解し辛い、設定の見せ方が下手でつまらない、というアニメは、特にファンタジーを扱うアニメではありがちなポイントだが、今作はその程度の凡百で生易しい未熟さは微塵も感じられない。

むしろ、他に類を見ない不可思議なテンポに、独特すぎる言葉選びのセンス、強引でありながらどこか快活さすらも感じさせる物語の展開。強烈すぎる絵面や演出。 それらは視聴者に有無を言わせず己が道を指し示し、そして引っ張り上げる。文字通り強大なカリスマ性を揮う奇作として、辣腕を大いに振るった。 結果、人が霧がかった迷宮の先に、光を求めてしまうのと同じように、多くの(?)視聴者もまた今作の耽美な魅力に取り憑かれてしまったのである。

 


2.『星屑たちの宴』と『叡智への資格』の違い

 

さて、ここまでで前作『霊剣山 星屑たちの宴』とは一体どんな作品であり、そしてこの2期にどんな期待が寄せられていたのかという事も、なんとなく察しがついてきたのではないかと思う。

こういった前提を念頭に、ではいよいよ本題である『叡智への資格』の話へと移ろうと思う。

 

『叡智への資格』は先述した通り、前作から数年後の世界という事で、王陸を中心にしたキャラのビジュアルも大幅に変わり、一部霊剣派修士達の間で放送前から話題を呼んでいた。 そして話題と共に不安も襲いかかった。

何故ならば、2期になるにあたり監督を始めとする多くの制作スタッフに変更があったからだ。

 

「霊剣山のあの独特な個性がなくなってしまうのではないか」

「よくあるまともなアニメになってしまうのではないか」

こんな猜疑心に包まれた当時の修士達の緊張は筆舌に尽くしがたいものがあった事は、皆様の想像にも難くないだろう。

 

こうした様々な思いを孕みつつ、満を持して始まった第2期。結論だけ先に述べるとすれば、不安は杞憂に終わった。

相変わらずの奇妙奇天烈な映像、用語、演出を引っさげ再び現れた霊峰の姿に我々は歓喜することとなった。 だがしかし、全体の空気や毒性こそ同じだが、大きく変わった点も数多く存在する。

中でも最たる例は「ナレーション」の存在だろう。 元々ナレーション自体は1期から存在し、設定や用語の解説などを行っていたのだが、1期ではこれがまともに機能していなかった。しかし2期ではなんと、このナレーションがまともに解説をするようになったのだ。もっというと、ナレーションが入るタイミングが調整され、少し小難しい用語が出てくると即時解説が入るようになってしまった。

これは、制作サイドが「解説」の部分に意識を向けたことを現れであり、ナレーション以外にもストーリー全体が(1期と比べると)とてもわかりやすく単純化され、前作特有の持ち味であった「霧の中を歩く」感覚がなくなってしまった。 もっともこれは元々のストーリー自体の関係もあるだろうが、それにしたって(1期と比べると)かなりわかりやすい話になった。

 

そして次に大きく変わったのは、「霊剣山から下りている」ということである。

今作を象徴する名言として「霊剣山で待ってるぜ!」という文言があったが、これが実質封印されてしまった。というか看板に偽りありになってしまった。

作中時間の変化。スタッフの変化。舞台の変化。 様々な変化によって、従来の舵取りと

は異なる新たなる旅立ちを余儀なくされた。

では、『叡智への資格』は『星屑たちの宴』よりもグレードダウンしたのか?

答えは否である。むしろ、貴腐ワインを彷彿とさせる程に、深い味わいを増したとさえ言える。 その論拠となるのは、次の3点だ。

 

一.不可思議な脚本運びと世界観

二.より強烈になった独特の間と映像、BGM

三.さらに洗練されたキャラクター達の個性

 

一に関しては、前作から正しく継承された、霊剣山という作品が本来持つ習性だ。 ただ、その性質が「未知の病原体」から「伝染病」になったという程度である。

しかし二の演出まわり、そして三のキャラクター関係の描写はより一層の強化がなされ、とりわけ天才的ともいえるBGM芸ともいうべき劇伴の使用方法。 そして、王陸、瑠璃仙に代表される、一線も二線も画したイカれたキャラクター達の活躍っぷり。 これらはまさに「霊剣魂、此処に在り」と標榜する如く破壊力であり、寧ろ1つ1つの内容が解りやすくなった分、却って毒牙が磨かれる格好となった。

まるでRPGのラスボスを思い出させる、見事なまでの第二形態への変態を成功させた、と言えるだろう。

 


3.最終話「新たなる旅立ち」の衝戟

さて、かようにぶっ飛んだ娯楽性を有する『叡智への資格』だが、ではその何が、どういう部分が、こうしてわざわざブログを書くほどまでにスゴかったのか。 答えは、先日放送を終えたばかりの最終回にある。

 

これまでの謎と思われた様々な要素が、一つに組み合わさる、あの伝説の最終回に。 本作の演出はひたすらに「不可解で、ぶっ飛んでいる」ということは、これまで伝えた通りだが、実際にどのようなものがあるのか。具体的に見ていこう。 まずはOP『限界蹴とばして』内の映像を御覧いただきたい。

 

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王陸が最初馬に乗り…

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→一度降りて

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→また乗り

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→また降り

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→そのまま馬を走り抜く

 

まさに霊剣山を象徴するような、謎とコミカルさを兼ね備えた映像である。

このように、一見何も意味がない、シュールな笑いを誘うだけのシーンと認識してしまうだろう。

 

……しかしこれらは、実はすべて丁寧に丁寧に張られた伏線となっていたのだ!

 

それが明かされるのは、全て最終回怒涛のBパートである。

 

主人公の王陸と言えば、閻魔も泣いて逃げ出す餓鬼畜生の化身のような男であるが、そんな彼の俗世への思いが突然の回想と共に唐突に描かれていくのだが……

その過去で明らかになるのは、

「かつて王陸が幼少期に乗っていた馬がいた」

「その馬が一頭死に、その後2頭目が来た」

という事実であった。

 

さて、ここでもう一度OPを見ていただきたい。

 

……おわかりいただけただろうか?

そう、まるで意味のないように思えた2度の乗馬と下馬が、王陸の過去とそのまま重なるではないか!

 

更に、この回想に入る直前、王陸は俗世への思いを綴る。

仙人としてこの先何百年、何千年と生き修行を続ける運命にある自分の運命に、数十年後には息を引き取る自らの両親の事を思い馳せるのだ。

そうつまり、王陸は他の命が寿命を迎えても一人先へと走り続けなければならない。 察しの良い皆様ならもうおわかりだろう。

つまり、OPの馬から降り走り抜いて行くシーンは、まさに仙道を征く王陸の覚悟と運命を表現しているのだと。

 

そうして考えると、『限界蹴飛ばして』というフレーズも、ただのおもしろワードではなくなってくる。

人間としての魂の限界を乗り越え、時に冷徹に、乱暴にくぐり抜けていく王陸の在り方は、文字通り『限界蹴飛ばして』いく力強さそのものではないか?

 

更にこれだけではない。 もう一つ、こちらを見ていただきたい。

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これは霊剣派の修士達なら誰もが覚えているだろう、通称「例の水車小屋」である。

この水車の回転に合わせてズッコンバッコン小屋でお馴染みの水車小屋だが。

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なんとこれも最終話のBパートで出てくる。 それも王陸が歩いているシーンで、突然なんら脈絡なく映り込んでいる。 だが、これにも勿論深い意味がある。

なぜなら このすぐ後に、王陸に弟が出来ていたことが発覚するからである。

 

こちらも一見何ら意味のない、ともすれば一つのギャグ要素として終えると誰もが思っていたはずのアイテムさえ、伏線として機能させていたのである。

 

そして何より舌を巻くのは、王陸という主人公の内面が最後に描かれるという構図である。

旧友をデブを詰ったり、お世話になった女将さんを男の元に売春させたり、更にその裏で陰口を叩いたり、愚民共から税を毟り取るという邪教を創り上げたり、税のついでに魂まで吸い取ったり、挙句に最後はその宗教ごと捨て去ったり、棚に上げて相手を邪教と罵ったり、嘘っぱちであったり、皇太子の目の前で女を寝取ったり、敵の苦しみこそ俺の喜びだと言い切ってみたり、自分の宗教の為に死んだ怨霊に襲われるも最終的に開き直ったりと、これまで非道外道悪行の限りを尽くしてきた我らが主人公・王陸。

だがそんなおよそ人間の血が通っているとは思えない畜生の彼が心で抱く両親、俗世、そして人々に対する思いに触れ、その時ようやく今作の本当の姿が見えてきた。

 

それは、王陸の目指す理想だったのだ。

 

本作のタイトルは『叡智への資格』であった。

では、この『叡智』とは一体、何を指し示していたのか?

普通に見れば、これは「仙人への道」の事であろう。実際王陸も、仙人になるためにこれまで様々な暗躍をしてきたわけである。

だが、王陸の目指す仙道とは、通常の道とは大きく異なる方向を向いている。これは1期から一貫して描かれている部分であるが、今ある仙人としての既成概念に疑問を呈し、覆しながら進んでいく、そんな新境地を進むのが彼のやり方だ。

そういう意味で、持ち前の知性と発想力で、王陸にしかなし得ない現在の仙道の更に先にある道を指して『叡智』ということかもしれない。

 

しかし、本作の『叡智』とは、もっと身近で、もっと人間味あふれるものだと、私はこの最終回で気が付いてしまったのだ。

 

智教の教祖として俗世の人々をある種見下し、先導してきた彼だが、自らの弟の誕生に驚き、母の料理に舌鼓し、そして最後は別れる両親を思い彼らを強く抱きしめる。幼少期には馬の死に涙を流す。本当にこれが我らの王陸なのか!?

 

しかし元はと言えば、智教を作ると言い出したキッカケも、自分の故郷の民を守るためであった。 今回の物語において、王陸は俗世に、仙人として人の世に関わる修行として降りてきた訳だが、そこにあったのは果たして仙人であるという矜持や、仙人という存在を貶める邪教への怒り、そして純粋に試験のためというドライな思いだけだっただろうか?

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王陸は最後、次のセリフを持って物語を締める。

 

「人民の力は大きい。彼らを動かすには、”理想”を与えることだ」

 

これは彼が今回の試練を通じて得た教訓であると共に、彼自身の願いが含まれているのだと私は感じた。 智教の教えも、なんだかんだ言って「みんなで頑張れば遠い将来仙人になれるよ(意訳)」という内容であったし、もしかすると彼は、一見ただのサイコパス、ただの犬畜生に見せかけて、実は誰よりも深い慈愛を人々に向けているのではないだろうか。

誰もが理想や信念を持ち進む地点こそが「叡智」であり、そこに辿り着く資格は誰もが持っている。智教というシステムを通じ、彼が最終的に人々に伝播したかったのは、とても前向きな感情だったのかもしれない。その姿、まさに仙人。

 

美化しすぎとも思うかもしれないが、あるいはこれだけ「一見意味のないもの」に意味を生み出した作品だ。その裏側には、決して表立って描かれる事がない、深層の部分が根深く潜んでいるのかもしれない。そんな推察すらも想起させるほどに、この最終回は非常に巧妙な「技」が光っていた。

雑さと謎さといった持ち味をきっちり残しつつ、そこに説得力すら与える。これまでの要素を拾い集め、まるでパズルのように美しく、魅力を十二分以上に増加させる。アニメにおける一つの叡智。是非噛み締めてほしい。

 

霊 剣 山 で 待 っ て る ぜ !