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落書きほどではないけれど、芸術的でも決してない。そんな感じ。

『キミ戦』1話をプラトン哲学のイデア論で考えてみる。

皆さんは先日放送スタートしたTVアニメ『キミと僕の最後の戦場、あるいは世界がはじまる聖戦』通称『キミ戦』の第1話はもうご覧になられただろうか?

観てない人は今すぐに観よう。こんなクソ記事を読んでいる場合ではない。

 

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 さて、突然だが皆さんはギリシャの哲学者プラトンが提唱したイデア論をご存知だろうか?

まずはこちらについて理解を深めて頂ければと思う。

 

 

イデア(idea)とは“完全不滅なものの概念”であり、

イデアが存在する世界をイデアと呼んでいる。

そして、今ボクらが居るこの現実界は、

全てイデアを投影した似姿に過ぎないという考え方だ。

 

 

例えば、ボクが今適当に“○“を描けば、それを皆”円形“だと理解できる。

多少歪んだり、角ついてたりしていても、

なんとなく感覚で“円形”だとわかるんじゃないかと思う。

 

では、この“なんとなく感覚でわかる”とはどういうことなのだろうか?

その答えこそが、イデア界で完璧な”円形“を認知しているからだ」と、そう唱えているのである。

 

つまりボクらは、イデア界に存在する”完全な姿(イデアを、感覚(理性)として知っているのだというのが、このイデア論というものの雑な概略だ。

 

 

プラトン曰く、このイデア界というものは実在しており、

そこでは先も述べたように、

万物の完全なる姿という概念なるものがあるとのことである。

 

 

 

 

であれば、だ。

「アニメ」もまた、イデア界に完全な概念として存在していると考えるのが自然ではないだろうか。

 

 

「完全なアニメの概念」。

完全……かんぜんなあにめ……とは一体何だ……?

 

 

非の打ち所がない傑作のことか?

心を震わす尊さがある作品のことか?

はたまた、商業的に成功した商品のことか?

 

 

否。はっきり言わしてもらう。否だ。

完全なアニメ。そうそれは……

 

 

 

 

 

 

B級テンプレファンタジーである。

 

 

 

 

 

ボーイ・ミーツ・ガールに始まり、

ヒロインが雑なきっかけで主人公に惚れて、

いかにも記号化されたキャラクター立ちが、

どこかで見たような異能で戦い、

毒にも薬にもならないありきたりな物語を進めていく。

 

 そうして時折ラッキースケベや、キャッチーな持ちゼリフなどが飛び出れば完璧だ。

これはもう誰の目からみても100点といえるだろう。

 

 

そんな、誰もが一様に「古臭い」と論ずる作品群……。

初見であるはずなのに、何故か先の展開が容易にわかってしまう感覚……。

暫くすると、謎めいたノスタルジーすらも与えられるその在り方……。

これはもうまさしくイデアだろう。

 

 

 

そして今一度、『キミ戦』の華麗なる1話を振り返ってほしい。

 

 

 

・ボーイ・ミーツ・ガールに始まり、

・ヒロインが雑なきっかけで主人公に惚れて、

・いかにも記号化されたキャラクター立ちが、

・どこかで見たような異能で戦い、

・毒にも薬にもならないありきたりな物語を進めていく。

 

 

 

……なんだぁこの完全無欠な1話は!?

 

類まれに見るほどの教科書通り。

なんなら100年後には学術的映像として方々から重宝されることは想像に難くない。

 

惜しくもラッキースケベやキャッチーな持ちゼリフなどは飛び出なかったが、

それを差し引いても、このテンプレイズムは完璧と言って差し支えないだろう。

 

 王道中の王道、B級中のB級。これはもう"イデアそのもの"と言っていい。

 

 

 

 

勘のいい諸氏ならもうお気づきだろう。

そう、つまりボクらは『キミ戦』の1話を見ていたのではない。

その先にあるイデアを見ていたのだ。

きっとそうだ。そうに違いない。

 

 

 

 

 

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©2020 細音啓・猫鍋蒼/KADOKAWA/キミ戦製作委員会

 

こうして掘り下げていくと、主人公の名前がイスカであることにも不思議な説得力が湧いてくる。

 

 

 

イスカ……そう、皆さんお馴染み、2015年の冬に放送していたアニメISUCAだ。

 

 

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© 2014 高橋脩KADOKAWA 角川書店刊/ISUCA製作委員会

 

もはや公式HPすらも消滅したこのISUCA

5年前の当時をして

「古臭い」

「使い古されている」

「でもなんか好き」

「なにすんのよこのスケベ!」

と、多大な称賛を以て受け入れられた傑物である。

 

 

今思えば、こちらもまた紛れもないイデアであったということは、

かつての視聴層誰もが首肯を禁じえない事実であろう。

ちなみにISUCA』を『ISUKA』と誤表記するのは重犯罪なので気をつけましょう。

 

 

ラノベ原作とマンガ原作という、異なるルーツを持つ二作。

しかし、両者の文脈には共通項が多く、

いかにボクらの根底に宿る原風景が同じカタチをしているかという証左であろう。

 

 

『キミ戦』の原作者である細根啓先生が

一体何故、イスカという名を主人公に冠したのか。

確信犯なのか、はたまた偶然の産物なのか……

いずれにしても、なにか天啓めいたものを感じずにはいられない。

何なら細根啓の「啓」は、天啓の「啓」が由来に違いない。

 

 

 

しかし近年、テンプレというものの形は変容してきている。

なろう小説の台頭により、王道ファンタジーという座は

今やすっかり異世界転生ものに取って代わられている。

というより、この現実界に不変なものはない。

その時の流行り廃り、王道なんぞというものは、

社会や時代の変化によって容易に移り変わるものなのだ。

 

 

だけど、決して変わらないものだってある。

永々脈々と受け継がれてきた歴史が作り出したテンプレは、

どれだけ淘汰されようとも決して滅びることはない。

 

現に『キミ戦』の刊行は2017年5月。

なろう小説が一騎当千を果たした魔の時代において尚、

こうして古き良きテンプレが現れ、支持され、

そして映像化にまで到っている。

そこには、いつの世も変わらない"イデア"を求める衝動が、

人々の心に根付いているからなのかもしれない。

 

 

 

この変わりゆく現実の中で、

唯一変わることのないなにか。

人の魂の根源に宿る、完全不変の概念。

『キミ戦』1話からは、そんな言葉では言い表せないときめきがあった。

 

 

 

ありがとう、細根先生。

ありがとう、シルバーリンク

そしてありがとう、プラトン……。

 

2025年、2030年と、同じ血族のアニメが

変わらず門戸を叩いていることを、ボクは心より信じて疑わない。

 

 

 

 

キミ戦1話を見たボクf:id:Sui-rei:20201008201202j:plain

 

 

 

では、また